三重映画フェスティバル実行委員会の協力によりお送りしている「三重映画さんぽ」のコーナー、今回は、「八月の濡れた砂」「赤ちょうちん」「妹」など、1970年代の若者を代表する映画監督と言われた四日市市出身の藤田敏八監督についてです。
2012年に藤田監督の初の評伝を執筆された、三重映画フェスティバル実行委員会の林久登さんにご紹介いただきました。
林さんは、藤田監督の弟さんと同僚だったことから、監督とのご縁ができたそうです。
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以下、林さんのお話。
藤田監督が登場した時代背景を伺うと、石原裕次郎や小林旭が華々しくデビューした昭和50年代後半は映画の全盛期でしたが、60年代に入るとテレビの影響で映画産業がガタガタになり、70年には観客がピーク時の20%に激減し、映画会社が軒並み潰れたました。作れば入る安直な映画ではやって行けない時代になってきたのです。
また、1967年に始まった大学紛争が1969年に東大安田講堂が陥落し、学生の間で敗北感が漂っていた時代です。そんな時に藤田が作った映画『八月の濡れた砂』は、権力や家族に背を向けたアンニュイな若者像が、圧倒的な学生の支持を受け、学生の間で教祖的存在になりました。
その後も、時代の申し子のような新人女優秋吉久美子を使った3部作『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』が、若者の間で熱狂的な支持を受け「青春映画の旗手」と呼ばれるようになります。
そんな苦しい時代の日活の屋台骨を支えたことから、藤田は社内で割りと自由に映画が撮れる監督となり、80年代には、自分の分身のような中年男(山崎努)を登場させ、モラトリアムな大人になりきれない映画『スローなブギにしてくれ』『ダイヤモンドは傷つかない』を撮りました。日本映画としてはめずらしい中年をテーマにした映画として話題を呼んだのです。
藤田監督は生涯31作品を残しました。最後の作品は『リボルバー』で、1988年の作品です。それから10年は、もっぱら役者として映画やテレビの傍役として登場します。
藤田は元々役者志望で、東大在学中に俳優座養成所に入っています。同期にジェームス・三木や平幹二朗がいます。しかし、役者根性のある卵たちに囲まれ、とても彼らに勝てないと判断し、映画を作る世界に入ります。しかし、晩年役者として帰り咲くのです。決してうまい役者じゃなかったですが、写真からもわかるように、フォトジェティックな男で存在感があったんです。代表作として、映画では鈴木清順の『ツゴイネルワイゼン』テレビでは向田邦子シリーズの傍役爺さん等があります。寡黙な男でしたが女性にもメチャメチャもてました。生涯で4度結婚しています。一言もしゃべらないで女を口説いたという逸話も残っています。
四日市の関わりは、四日市高校を卒業後、家を出る手段として東大に入り、縁があって映画の世界に入ります。65歳で亡くなるまで、多感な少年時代を過ごした四日市にはほとんど帰っていません。三重県知事だった叔父の田中覚は、東京に出る機会が多く、何かあると藤田家の窓口になっていたようです。田中覚は母親の弟でした。ちなみに四日市市長を長く続けた加藤寛嗣は母の従姉妹にあたります。
藤田敏八は日活の主流ではなかったものの、70年代の映画界の潮流を変えた男で、監督と役者の二刀流で存在感をみせた男が四日市出身だったということを記憶にとどめていただきたいと思います。8月29日は藤田の命日で、亡くなって17年目になります。藤田作品をDVDで見て供養してあげてください。
もっと、もっと藤田について知りたいという方は、「映画監督 藤田敏八」(林久登著)をお読みください。
山上和美でした♪